いずのみたま

霊界物語  第1巻 
 第2篇 幽界より神界へ 
 第12章 顕幽一致

すべて宇宙うちうの一切いつさいは、顕幽けんいう一致いつち、善悪ぜんあく一如いちによにして、絶対ぜつたいの善ぜんもなければ、絶対ぜつたいの悪あくもない。従したがつてまた、絶対ぜつたいの極楽ごくらくもなければ、絶対ぜつたいの苦艱くかんもないといつて良よいくらゐだ。歓楽くわんらくの内うちに艱苦かんくがあり、艱苦かんくの内うちに歓楽くわんらくのあるものだ。ゆゑに根ねの国くに、底そこの国くにに墜おちて、無限むげんの苦悩くなうを受うけるのは、要えうするに、自己じこの身魂みたまより産出さんしゆつしたる報むくいである。また顕界けんかいの者ものの霊魂みたまが、常つねに霊界れいかいに通つうじ、霊界れいかいからは、常つねに顕界けんかいと交通かうつうを保たもち、幾いく百千万ひやくせんまん年ねんといへども易かはることはない。
神諭しんゆに、……天国てんごくも地獄ぢごくも皆みな自己じこの身魂みたまより顕出けんしゆつする。故ゆゑに世よの中なかには悲観ひくわんを離はなれた楽観らくくわんはなく、罪悪ざいあくと別立べつりつしたる真善美しんぜんびもない。苦痛くつうを除のぞいては、真しんの快楽くわいらくを求もとめられるものでない。
また凡夫ぼんぶの他ほかに神かみはない。言げんを換かへていへば善悪ぜんあく不二ふじにして正邪せいじや一如いちによである。……仏典ぶつてんにいふ。「煩悩ぼんなう即そく菩提ぼだい。生死しやうじ即そく涅槃ねはん。娑婆しやば即そく浄土じやうど。仏凡ぶつぼん本来ほんらい不二ふじ」である。神かみの道みちからいへば「神俗しんぞく本来ほんらい不二ふじ」が真理しんりである。

 仏ぶつの大慈悲だいじひといふも、神かみの道みちの恵めぐみ幸さちはひといふも、凡夫ぼんぶの欲望よくばうといふのも、その本質ほんしつにおいては大たいした変かはりはない。凡俗ぼんぞくの持もてる性質せいしつそのままが神かみであるといつてよい。神かみの持もつてをらるる性質せいしつの全体ぜんたいが、皆みなことごとく凡俗ぼんぞくに備そなはつてをるといつてもよい。

天国てんごく浄土じやうどと社会しやくわい娑婆しやばとは、その本質ほんしつにおいて、毫末がうまつの差異さいもないものである。かくの如ごとく本質ほんしつにおいては全然ぜんぜん同一どういつのものでありながら、何なにゆゑに神俗しんぞく、浄穢じやうゑ、正邪せいじや、善悪ぜんあくが分わかるるのであらうか。要えうするに此この本然ほんぜんの性質せいしつを十分じふぷんに発揮はつきして、適当てきたうなる活動くわつどうをすると、せぬとの程度ていどに対たいして、附ふしたる仮定かてい的てきの符号ふがうに過すぎないのだ。

善悪ぜんあくといふものは決けつして一定いつてい不変ふへんのものではなく、時ときと処ところと位置ゐちとによつて、善ぜんも悪あくとなり、悪あくも善ぜんとなることがある。

道みちの大原たいげんにいふ。「善ぜんは天下てんか公共こうきようのために処しよし、悪あくは一人ひとりの私有しいうに所しよす。正心せいしん徳行とくかうは善ぜんなり、不正ふせい無行むかうは悪あくなり」と。何なにほど善よき事ことといへども、自己じこ一人ひとりの私有しいうに所ところするための善ぜんは、決けつして真しんの善ぜんではない。たとへ少々せうせうぐらゐ悪あくが有あつても、天下てんか公共こうきようのためになる事ことなれば、これは矢張やはり善ぜんと言いはねばならぬ。文王ぶんわう一ひとたび怒いかつて天下てんか治おさまる。怒いかるもまた可かなり、といふべしである。

これより推おし考かんがふる時ときは、小ちひさい悲観ひくわんの取とるに足たらざるとともに、勝論しようろん外道げだう的てきの暫有ざんいう的てき小楽観せうらくくわんもいけない。大楽観だいらくくわんと大悲観だいひくわんとは結局けつきよく同一どういつに帰きするものであつて、神かみは大だい楽観者らくくわんしやであると同時どうじに、大だい悲観者ひくわんしやである。

凡俗ぼんぞくは小せうなる悲観者ひくわんしやであり、また小せうなる楽観者らくくわんしやである。社会しやくわい、娑婆しやば、現界げんかいは、小苦せうく小楽せうらくの境界きやうがいであり、霊界れいかいは、大楽だいらく大苦だいくの位置ゐちである。理趣経りしゆきやうには、「大貪だいとん大痴だいち是これ三摩地さんまぢ、是これ浄菩提じやうぼだい、淫欲いんよく是道ぜだう」とあつて、いはゆる当相たうさう即道そくだうの真諦しんたいである。

禁欲きんよく主義しゆぎはいけぬ、恋愛れんあいは神聖しんせいであるといつて、しかも之これを自然しぜん主義しゆぎ的てき、本能ほんのう的てきで、すなはち自己じこと同大どうだい程度ていどに決行けつかうし、満足まんぞくせむとするのが凡夫ぼんぶである。これを拡充くわくじゆうして宇宙大うちうだいに実行じつかうするのが神かみである。


神かみは三千さんぜん世界せかいの蒼生さうせいは、皆みなわが愛子あいじとなし、一切いつさいの万有ばんいうを済度さいどせむとするの、大欲望だいよくばうがある。凡俗ぼんぞくはわが妻子さいし眷属けんぞくのみを愛あいし、すこしも他たを顧かへりみないのみならず、自己じこのみが満足まんぞくし、他たを知しらざるの小貪欲せうとんよくを擅ほしいままにするものである。人ひとの身魂みたまそのものは本来ほんらいは神かみである。ゆゑに宇宙大うちうだいに活動くわつどうし得うべき、天賦てんぷ的てき本能ほんのうを具備ぐびしてをる。それで此この天賦てんぷの本質ほんしつなる、智ち、愛あい、勇ゆう、親しんを開発かいはつし、実現じつげんするのが人生じんせいの本分ほんぶんである。これを善悪ぜんあくの標準論へうじゆんろんよりみれば、自我じが実現じつげん主義しゆぎとでもいふべきか。吾人ごじんの善悪ぜんあく両様りやうやうの動作どうさが、社会しやくわい人類じんるゐのため済度さいどのために、そのまま賞罰しやうばつ二面にめんの大活動だいくわつどうを呈ていするやうになるものである。この大だいなる威力ゐりよくと活動くわつどうとが、すなはち神かみであり、いはゆる自我じがの宇宙うちう的てき拡大くわくだいである。

いま伝えゆくlove ray heart

愛の理を糧に、地球でできること

0コメント

  • 1000 / 1000