地震の巻~第13帖  


地上人が、限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、
霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念を持つ霊人が住んでおり、常に弥栄いやさかしつつある。

下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。

美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現れ得ない場合がある。

そこに偉大にして、はかり知れざる弥栄いやさかの御神意がある。と同時に、+(真善)✳(真善美愛)✹(歓喜)✺(大歓喜)と現れる神秘なる弥栄いやさかがあり、悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。

ゆえに、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面においては、極めて尊いものとなるのである。

下級霊人自身が(善)なりと信じて行為することが、地上人には(悪)と現れることが多いのである。

なぜならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。

そがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御み旨むねなるがごとくに独断し、ついには、自信自らが神の代行者なり、と信じるようになるからである。

いわゆる無き地獄をつくり出すからである。
地獄的下級霊の現れには、多くの奇跡的なものをふくむ。

奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現れであることを知らなければならない。
かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。

浄化し、改心し得ないものである。

また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や賞罰のみによっても向上し得ない。

すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何らの向上も弥栄いやさかも歓喜もあり得ない。

半面、向上のごとくに見える面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。
これは強しいるが為めである。

神の歓喜には強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。

戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。

それは大神の内流によって弥栄いやさかする世界ではなく、影の世界である。

中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。

霊界の文字は主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。
直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は太陽の霊人が使用している。

ただし、高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなすゝと◯と+があるのみ。
また高度の霊人の文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。

数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。

しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。

地震の巻~第18帖  


神から出る真・善・美・愛の用はたらきに奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。

ゆえに、霊界における霊人たちの職業は、
その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。

為にその用はたらきは無数であり、かつ千変万化する。
歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。
ゆえに、自分自身の我がが表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。

霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多種であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。

そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の働きをなしているのである。

ゆえに、いずれの面の用はたらきをなすとも、自己というものはなく、弥栄いやさかあるのみ、神あるのみとなる。

なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。

すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。

為に、命令的なものはない。
ただ、ひたすら奉仕があるのみである。
その奉仕は地上人であった時の職業と相通じるものがある。

なぜならば霊と物とは対応しているからである。
生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用はたらきを繰り返しつつ弥栄いやさかえている。

従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。

陽人と陰人とである。

陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人のために存在する。

太陽は、太陰により弥栄いやさかえ、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。
この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。

ゆえに、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称されている。

三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。

新しき生命とは新しき歓喜である。
歓喜は、物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現れるものである。

霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。
秋は陰であり、月と光り、かつ力する。
この春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのである。

春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得る。

また、悪があればこそ生長し、弥栄いやさかし、かつ救われるのである。

ゆえに神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給たまうものである。

いま伝えゆくlove ray heart

愛の理を糧に、地球でできること

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