地震の巻
歓喜に向かうことは親に向かうことであり、根元に通じることである。
世を捨て、外部的、肉体的諸慾を捨てた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。
なぜならば、地上人における肉体は、
逆に霊の守護をなす重大な役目を持っているからである。
地上人が、その時の社会的、物質的生活を離れて、霊的生活にのみ入るというのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
天国を動かす力ちからは地獄であり、
光明を輝かす力ちからは暗黒である。
地獄は天国あるがゆえであり
暗黒は光明あるがゆえである。
因は果にうつり、呼が吸となりゆく道程において、歓喜はさらに歓喜を生じる。
その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。
呼が強くなれば吸も強くなり、
吸が長くなれば呼もまた長くなる。
ゆえに地獄的なものも 天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現れであることを知らねばならない。
天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。
なぜならば、天国のいかなる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の調整が行われるからである。
この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜ではなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。
また、この平衡の上におかれた場合は、
善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国でない。
ただひたすらなる大歓喜が
弥栄いやさかえるのみである。
地震の巻~第19帖
天国の政治は、歓喜の政治である。ゆえに、戒律はない。
戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。
天国の政治は、愛の政治である。
政治する政治ではない。
より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。
ゆえに、与える政治と現れる。
天国は限りなき団体によって形成されている。
そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。
統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現れる。
三人が元となり、その中心の一人は、ゝによって現され、他の二人は、◯によって現される。
◯は、左右上下 二つの動きのを為すところの立体からなっている。
統治者の心奥のゝは、さらに高度にして、さらに内奥に位するゝの中のゝによって統一され、統治され、立体をなしている。
天国ではこのゝを、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。
スの神は、アの神と現れ給たまい、オとウとひらき給たまい、
続いて、エとイと動き現れ給たまうのである。
これが総体の統治神である。三神であり、二神である。
ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。
これら天国の組織は、人体の組織と対応し、
天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。
オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。
エ・イなる真まことは、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。
これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。
よりよく奉仕するのみである。
奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、
善と、真まこととの浄化と共に、悪と偽いつわりの調和をなし、これらのすべてを神の力と生かし、さらに高度な大歓喜に至らんかと努力することである。
また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、他の善と真まこととを先とし、その歓喜をまずよろこび、己おのれはその中にとけ入る。
ゆえにこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。
指令することは、戒律をつくることであり、
戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。
天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。
一家には一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。
またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。
その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄いやさかである。
すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。
天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。
歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。
けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。
礼拝生活である。
すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。
ゆえに、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。
しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致してる。
地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、
天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄いやさかえるがゆえに生じるものであり、
その弥栄いやさかが神の用はたらきである。
森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄いやさかを見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、
無限と、永遠が神の用はたらきなることを知らねばならぬ。
天国の政治は、光の政治である。
天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と、熱を発しているが、
天国の太陽は、一つではなく二つとして現れている。
一は月球のごとき現れ方である。
一は火の現れ、火の政治であり、
一は水の現れ、水の政治である。
愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、
智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。
月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動のいかんによるのであって、
神は常に光と熱として接し給たまうのである。
またそれは、大いなる歓喜として現れ給たまう。
光と熱とは、太陽そのものではない。
太陽は、火と現れ、月は、水と現れるが、その内奥はいずれも大歓喜である。
光と熱とは、そこより出ずる一つの現れに過ぎないことを知らねばならぬ。
このことをよく理解するがゆえに、天国の政治は、常に光の中にあり、
また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。
天国の太陽よりは、真まことと愛が常に流れ出ているが、その真まことと、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現れ出たものが真まことと見え、愛と感じられるのみである。
太陽の内奥は大歓喜が存在する。
ゆえに高度の天人の場合は、愛も真まこともなく、はるかにそれらを超越した歓喜のゝが感じられるのみである。
この歓喜のゝが、真まこと・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。
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